「禅とオートバイ修理技術(上下)」 ロバート M パーシグ その2
その2です
●「シャトーカ」について
哲学の基本的なことがらが事例を交えて比較的分かりやすく書かれていると思った。学生時代に学んだことを思い出し、それと結びつけながら読んでいたので普段と違うアタマを使う。そのため読み切るまで結構時間がかかった。でも良い復習になった感じがする。
電車の中で読みはじめると没頭してしまい、何度か電車を乗り過ごしそうになったりした。
●「クオリティ」について
「クオリティ」とは何か? その問いは著者の思索や回想の中で、何度も出てくる。しかし、最後まできちんとした結論らしき結論は出てこなかった。ちょっと肩透かしを食らった感じだった。
しかし、読後しばらく経って、ここで書かれている「オートバイ修理技術」についてもう一度考えてみると、著者が「クオリティ」について言いたかったことがなんとなく分かったような気が今はしている。
●修理技術について
この本では、オートバイを修理する修理工の技術について、哲学的思索が繰り広げられている。簡単にいえば薀蓄だ。しかしこの薀蓄、プロの薀蓄ではなくてアマチュアの薀蓄だなと思う。
著者は、修理に行き詰まったら、コーヒーを入れながらアイディアが浮かぶまでゆっくり椅子に座って考え直せば良いという。。。。しかしそんなことが許されるのは趣味・アマチュアの世界だけだ。
私は19歳から工業製品の修理の仕事に携わっている。今はいちおうソフト屋だけど、小さい会社だから開発からメンテまでやらなければならず、いまだ機械・電気の修理も時々やっている。
趣味ではなく、仕事として工業製品を修理するには、定められた枠の中で「常に及第点」を出すことが求められる。「100点以上」は求められない。及第点を、コストと時間が許す限りにおいてこなしていく。それが仕事としての工業製品の修理の基本だと私は思っている。
オートバイや家電製品など、工業製品の修理の基本は「工場出荷時に復旧」であり、それが及第点だ。もしかしたら、名人の修理は、元々の設計を超えるようなクオリティを持っているかもしれない。でも工業製品の修理屋なら元々の設計を超えるような仕事をすることは極めて稀なことだ。
そこまで考えて、ひょっとして勘違いしているのは私のほうではないかと思った。著者が言いたかった「クオリティ」とは、工業製品の修理のような一般的なクオリティではなく、一回性を持ったかけがえのない存在に関するクオリティだとしたら。。。
例えば、トヨタのカローラという工業製品があったとして、トヨタの修理屋ならカローラを工場出荷時の状態に戻すためにカローラという機種を「同じように」「一般的に」部品交換や調整をするだろうし、そのための修理技術のクオリティを持っているだろう。
しかし、ユーザーから見れば、同じカローラでもそれは「自分のカローラ」なのであって、部品やシートを交換して手を加えたり、何よりそこには車と一緒に過ごしてきた時間、かけがえのない一回性の歴史がある。中には自分の車に個別の名前を付けるほど、それに思い入れを持っている人もいるくらいだ。
そうなってくると、それは工業製品であると同時に、愛でる対象としての芸術作品でもある。芸術作品なら、コストも時間も考慮しないでよいし、作ることそのものが自己目的的であっても構わない。
そもそも、この本の原題は"ZEN AND THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE”だ。あえて Art,芸術 という言い方をしているにも関わらず、なぜ「技術」と訳したのか、少し疑問ではある。
●「対話による分裂した人格の統合」
結末を読んで、十分考えられて構成されていると思った。結末に近づくにつれ、「シャトーカ」の思索の中で、かつてパイドロスが取り組んでいた弁証法の話が出てくる。
結末では、著者とクリスとの間のディアローグ(対話、弁証)が繰り広げられる。11歳の子どもとの対話だから対話じたいは難しい話ではない。しかし二人の関係が危うくなるような崖っぷちの対話のうちに、過去のパイドロスと現在の著者とが統合されていく。
それまでの「シャトーカ」での微に入り細に入りにわたる分析と、この結末に現れる対話による統合とは見事な対を成している。
「分析と統合」「対話による分裂した人格の統合」そして「個性化」これらはユング心理学の心理療法が目指していたところだった。
ひょっとしたら、"THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE"というのは、著者自身の著者自身による心のメンテナンスの投影だったのかもしれない。著者の言う「クオリティ」という概念が、もし一回性を持ったかけがえのない存在についての概念だとしたら、おそらく、かけがえのない人間という現実存在、そして個性についても、「クオリティ」は存在するのだろうと思う。
※MIXI日記より訂正加筆の上転載
●「シャトーカ」について
哲学の基本的なことがらが事例を交えて比較的分かりやすく書かれていると思った。学生時代に学んだことを思い出し、それと結びつけながら読んでいたので普段と違うアタマを使う。そのため読み切るまで結構時間がかかった。でも良い復習になった感じがする。
電車の中で読みはじめると没頭してしまい、何度か電車を乗り過ごしそうになったりした。
●「クオリティ」について
「クオリティ」とは何か? その問いは著者の思索や回想の中で、何度も出てくる。しかし、最後まできちんとした結論らしき結論は出てこなかった。ちょっと肩透かしを食らった感じだった。
しかし、読後しばらく経って、ここで書かれている「オートバイ修理技術」についてもう一度考えてみると、著者が「クオリティ」について言いたかったことがなんとなく分かったような気が今はしている。
●修理技術について
この本では、オートバイを修理する修理工の技術について、哲学的思索が繰り広げられている。簡単にいえば薀蓄だ。しかしこの薀蓄、プロの薀蓄ではなくてアマチュアの薀蓄だなと思う。
著者は、修理に行き詰まったら、コーヒーを入れながらアイディアが浮かぶまでゆっくり椅子に座って考え直せば良いという。。。。しかしそんなことが許されるのは趣味・アマチュアの世界だけだ。
私は19歳から工業製品の修理の仕事に携わっている。今はいちおうソフト屋だけど、小さい会社だから開発からメンテまでやらなければならず、いまだ機械・電気の修理も時々やっている。
趣味ではなく、仕事として工業製品を修理するには、定められた枠の中で「常に及第点」を出すことが求められる。「100点以上」は求められない。及第点を、コストと時間が許す限りにおいてこなしていく。それが仕事としての工業製品の修理の基本だと私は思っている。
オートバイや家電製品など、工業製品の修理の基本は「工場出荷時に復旧」であり、それが及第点だ。もしかしたら、名人の修理は、元々の設計を超えるようなクオリティを持っているかもしれない。でも工業製品の修理屋なら元々の設計を超えるような仕事をすることは極めて稀なことだ。
そこまで考えて、ひょっとして勘違いしているのは私のほうではないかと思った。著者が言いたかった「クオリティ」とは、工業製品の修理のような一般的なクオリティではなく、一回性を持ったかけがえのない存在に関するクオリティだとしたら。。。
例えば、トヨタのカローラという工業製品があったとして、トヨタの修理屋ならカローラを工場出荷時の状態に戻すためにカローラという機種を「同じように」「一般的に」部品交換や調整をするだろうし、そのための修理技術のクオリティを持っているだろう。
しかし、ユーザーから見れば、同じカローラでもそれは「自分のカローラ」なのであって、部品やシートを交換して手を加えたり、何よりそこには車と一緒に過ごしてきた時間、かけがえのない一回性の歴史がある。中には自分の車に個別の名前を付けるほど、それに思い入れを持っている人もいるくらいだ。
そうなってくると、それは工業製品であると同時に、愛でる対象としての芸術作品でもある。芸術作品なら、コストも時間も考慮しないでよいし、作ることそのものが自己目的的であっても構わない。
そもそも、この本の原題は"ZEN AND THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE”だ。あえて Art,芸術 という言い方をしているにも関わらず、なぜ「技術」と訳したのか、少し疑問ではある。
●「対話による分裂した人格の統合」
結末を読んで、十分考えられて構成されていると思った。結末に近づくにつれ、「シャトーカ」の思索の中で、かつてパイドロスが取り組んでいた弁証法の話が出てくる。
結末では、著者とクリスとの間のディアローグ(対話、弁証)が繰り広げられる。11歳の子どもとの対話だから対話じたいは難しい話ではない。しかし二人の関係が危うくなるような崖っぷちの対話のうちに、過去のパイドロスと現在の著者とが統合されていく。
それまでの「シャトーカ」での微に入り細に入りにわたる分析と、この結末に現れる対話による統合とは見事な対を成している。
「分析と統合」「対話による分裂した人格の統合」そして「個性化」これらはユング心理学の心理療法が目指していたところだった。
ひょっとしたら、"THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE"というのは、著者自身の著者自身による心のメンテナンスの投影だったのかもしれない。著者の言う「クオリティ」という概念が、もし一回性を持ったかけがえのない存在についての概念だとしたら、おそらく、かけがえのない人間という現実存在、そして個性についても、「クオリティ」は存在するのだろうと思う。
※MIXI日記より訂正加筆の上転載