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2010/07/22

「禅とオートバイ修理技術(上下)」 ロバート M パーシグ その2

その2です

●「シャトーカ」について
 哲学の基本的なことがらが事例を交えて比較的分かりやすく書かれていると思った。学生時代に学んだことを思い出し、それと結びつけながら読んでいたので普段と違うアタマを使う。そのため読み切るまで結構時間がかかった。でも良い復習になった感じがする。
 電車の中で読みはじめると没頭してしまい、何度か電車を乗り過ごしそうになったりした。

●「クオリティ」について
 「クオリティ」とは何か? その問いは著者の思索や回想の中で、何度も出てくる。しかし、最後まできちんとした結論らしき結論は出てこなかった。ちょっと肩透かしを食らった感じだった。
 しかし、読後しばらく経って、ここで書かれている「オートバイ修理技術」についてもう一度考えてみると、著者が「クオリティ」について言いたかったことがなんとなく分かったような気が今はしている。

●修理技術について
 この本では、オートバイを修理する修理工の技術について、哲学的思索が繰り広げられている。簡単にいえば薀蓄だ。しかしこの薀蓄、プロの薀蓄ではなくてアマチュアの薀蓄だなと思う。

 著者は、修理に行き詰まったら、コーヒーを入れながらアイディアが浮かぶまでゆっくり椅子に座って考え直せば良いという。。。。しかしそんなことが許されるのは趣味・アマチュアの世界だけだ。

 私は19歳から工業製品の修理の仕事に携わっている。今はいちおうソフト屋だけど、小さい会社だから開発からメンテまでやらなければならず、いまだ機械・電気の修理も時々やっている。

 趣味ではなく、仕事として工業製品を修理するには、定められた枠の中で「常に及第点」を出すことが求められる。「100点以上」は求められない。及第点を、コストと時間が許す限りにおいてこなしていく。それが仕事としての工業製品の修理の基本だと私は思っている。

 オートバイや家電製品など、工業製品の修理の基本は「工場出荷時に復旧」であり、それが及第点だ。もしかしたら、名人の修理は、元々の設計を超えるようなクオリティを持っているかもしれない。でも工業製品の修理屋なら元々の設計を超えるような仕事をすることは極めて稀なことだ。

 そこまで考えて、ひょっとして勘違いしているのは私のほうではないかと思った。著者が言いたかった「クオリティ」とは、工業製品の修理のような一般的なクオリティではなく、一回性を持ったかけがえのない存在に関するクオリティだとしたら。。。

 例えば、トヨタのカローラという工業製品があったとして、トヨタの修理屋ならカローラを工場出荷時の状態に戻すためにカローラという機種を「同じように」「一般的に」部品交換や調整をするだろうし、そのための修理技術のクオリティを持っているだろう。
 しかし、ユーザーから見れば、同じカローラでもそれは「自分のカローラ」なのであって、部品やシートを交換して手を加えたり、何よりそこには車と一緒に過ごしてきた時間、かけがえのない一回性の歴史がある。中には自分の車に個別の名前を付けるほど、それに思い入れを持っている人もいるくらいだ。

 そうなってくると、それは工業製品であると同時に、愛でる対象としての芸術作品でもある。芸術作品なら、コストも時間も考慮しないでよいし、作ることそのものが自己目的的であっても構わない。
 そもそも、この本の原題は"ZEN AND THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE”だ。あえて Art,芸術 という言い方をしているにも関わらず、なぜ「技術」と訳したのか、少し疑問ではある。

●「対話による分裂した人格の統合」
 結末を読んで、十分考えられて構成されていると思った。結末に近づくにつれ、「シャトーカ」の思索の中で、かつてパイドロスが取り組んでいた弁証法の話が出てくる。

 結末では、著者とクリスとの間のディアローグ(対話、弁証)が繰り広げられる。11歳の子どもとの対話だから対話じたいは難しい話ではない。しかし二人の関係が危うくなるような崖っぷちの対話のうちに、過去のパイドロスと現在の著者とが統合されていく。

 それまでの「シャトーカ」での微に入り細に入りにわたる分析と、この結末に現れる対話による統合とは見事な対を成している。

 「分析と統合」「対話による分裂した人格の統合」そして「個性化」これらはユング心理学の心理療法が目指していたところだった。

 ひょっとしたら、"THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE"というのは、著者自身の著者自身による心のメンテナンスの投影だったのかもしれない。著者の言う「クオリティ」という概念が、もし一回性を持ったかけがえのない存在についての概念だとしたら、おそらく、かけがえのない人間という現実存在、そして個性についても、「クオリティ」は存在するのだろうと思う。

※MIXI日記より訂正加筆の上転載
2010/07/22

「禅とオートバイ修理技術(上下)」 ロバート M パーシグ その1

 お友達の日記で知った「禅とオートバイ修理技術(上下)」 ロバート M.パーシグ を読み終えた。久しぶりにちゃんと読書したなという感じ。間を開けながらもじっくり味わって読ませてもらいました。。面白い本を紹介してもらい、ありがとうございました。
 読み終えてから1ヶ月以上経っているのだけど、読み終えてから色々考えると面白かったりしたので、ここで夏休みの読書感想文を書かせてもらいます。

●あらすじ

 事実に基づいて書かれた小説。著者は11歳の息子クリスとオートバイで長旅をする。Wikiで調べた生年から考えると、この時の著者の年齢は46歳。(とすると、これはほぼ今の私と私の息子の年齢と同じ。)

 著者は大学で英文学を教える教員だったが、哲学にも造詣が深かった。のみならず、元々の専門は化学。理系と文系をまたぐ凄い才能の人だったと思われる。しかしやりたいことを追求するが故の周囲との衝突、転勤、無理な思索。著者は精神の病にかかってしまう。そしてしまいに電気ショック療法を受けることに。以降、かつての攻撃的な性格は無くなるが、かわりに過去の記憶も失ってしまう。

 記憶を失ってからの著者のことはあまり詳しく書かれていないが、夏の日、友人夫妻と息子を連れだってオートバイ旅行に出ることを思い立つ。旅先では、かつて住んでいた大学のある街にも立ち寄り、旧友にも会い、それらを通じて著者の失われた記憶は少しずつ蘇ってくる。

 記憶を失う前の著者のことを著者は「パイドロス」と呼んで対象化している。パイドロスはプラトンの著作の名前であり、プラトンの対話者の名前だが、これとは直接関係なく、むしろこのギリシア語が示す「狼」という意味のほうを重ねあわせているようだ。「パイドロス」は優秀であるが荒々しく、攻撃的な性格であったことは、記憶の端々や昔の友人との再会の中で少しずつ明らかにされていく。

 途中、「シャトーカ」と呼ぶ著者の講義が何度も入る。というより、この本の半分くらいは「シャトーカ」なる哲学的思索の記述と言って良い。著者が「クオリティ」と呼ぶ概念を中心に、オートバイの修理技術に関する思索も展開される。
 (電気ショック療法で記憶を失った男が後ろに11歳の息子を乗せアメリカの荒野をオートバイに跨り疾走する。そしてムツカシイ哲学の思索をする。読んでいて少し心配になる。)

 パイドロスの記憶は最初はおぼろげに、しかしだんだんとはっきりしてくる。そして、最後に著者は息子クリスとの対話の中でパイドロスと統合される。記憶は蘇り、著者のものとなったのだ。その言葉はゴチックの太文字で記述され、それまでの記述とは区別されている。最後にはそのゴチックの太文字で極めて前向きな宣言がなされ、締めくくられる。

 ちなみにこの本の序文は、本文が出版されてから十年近く経ってから書かれている。序文では、クリスが成長し、22歳で路上で物盗りに襲われ亡くなったこと、ちょうどその時、再婚相手との間に子どもが出来ていたが、著者は堕胎しようとしていた。息子の死を聞き、それを思いとどまったこと。その子が女の子として産まれたことが書かれている。序文の最後では、その娘さんが著者のタイプライターではじめて遊んで残したランダムな文字がそのままの形で活字として記述されていて胸がつまる。
 
※MIXI日記より転載