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2008/10/13

ヨブ記講話/北森嘉蔵

 先日、近くの図書館へ行ったとき、ふと目に止まり、借りてみた。じつは返却期限を過ぎてしまっているので、メモがわりに書き留めておくことにする。

 「ヨブへの答え」というC.G.ユングの著作があって、発刊された1952年当時は論議を呼んだらしい。日本でも2つの翻訳が出ている。

 ということで私も、学生時代には何度も繰り返し読んだのだけれど、クリスチャンではないので、クリスチャンとしての解釈というのがどういうものなのか、特に、異端ではない解釈というのがどういうものなのかを知りたいと思っていた。

 この本を書いた北森嘉蔵という方は、プロテスタントの牧師さんで、長く東京神学大学の教授をされてきたという。ならば、現在のプロテスタントの立場から見たヨブ記が分かるのではないか、と思ったのだった。

 この本は、題名の通り、北森さんが講話として語られたものを活字にしている。そのため、普通の人々に語りかけるような調子になっていてたいへん読みやすい。語りの中の事例もたいへん人間的で、私のような不信心者が読んでも、長年苦労されて宣教活動されてきたのだろうな、ということが容易に想像できるようなものだった。

 最も興味深かった点は、ヨブ記の内容というのは、最後に向かって一直線の坂のように盛り上がっていくのではなく、実は中盤に最大の盛り上がりがあり、最後は坂を下っていくように盛り下がっていく、と解釈したほうが良いのではないか、ということだった。これによって解釈も異なると。北森さんはこれを「絶壁型」と「富士山型」の違いとしている。
 富士山の絶頂は17章から19章。ちょうどその19章には「わたしは知る。わたしをあがなう者は生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」という文言がある。

 神の2面性については、ユングも北森さんも共に指摘しているところ。ただし、ユングの著作のほうは悪について突っ込んだ記述をしていて、ある意味下世話な印象を受けるけれど、北森さんのほうは「無情な神」というていどの解釈になっている。 また、発達論的な観点から神の変容を説くのはユングの独自の考え方で、北森さんの著作にはもちろん出てこない。

 北森さんは、「ヨブ記」は色々な民話が合体して出来た物語なのではないかということを指摘する。ヨブ記の最後が比較的ハッピーエンドなのは、民話の特徴ではないかと。だからむしろ中盤のヨブの矛盾をはらんだぐちゃぐちゃの葛藤にこそヨブ記の真価があるということなのだろうと思う。

※MIXI日記より転載

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