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2013/12/26

サンマが食べられなくなった先生

 「私は、いまだにサンマが食べられないんです。」

 専門学校の授業中、戦争体験談を語りだしたトランジスタ工学の先生が、開口一番にそう言った。30年前に私が聞いた話だ。

IMG_0833のコピー


 学徒出陣で陸軍に入隊した先生は、高射砲部隊に配属されたという。高射砲とは、やってくる飛行機を撃ち落とすための大砲ないし機関砲だ。やがて何人もの部下が出来、先生は南方の島に配属された。

 戦いが進むうち、食料も少なく、孤立無援の状態で、昼間はアメリカ軍の爆撃にさらされる。やがて部隊全体が餓死寸前の極限状態になった。その状態で、今まで一緒に戦っていた部下が一人二人と戦死していく。

 そうして戦死していった部下を荼毘に付すのは、アメリカ軍の攻撃が止む夕方から。木を井桁に組んで、その上に亡くなった部下を載せ、火をつける。一日二日ではない。連日だったという。
 ところが、先生が言うには、その焼ける匂いというのが、サンマを焼く匂いにそっくりだったそうだ。私にはあまり想像が付かないが、餓死寸前の極限状態であれば、そのように感じてしまうのかもしれない。

 そんな中、煙の香りに精神状態がおかしくなった部下が、焼いている人の肉を食おうとする。
 「貴様何をやっとるか!」
 自分より年上の部下を、正気を取り戻すまで殴り続けたという。でも本当は、先生も極限状態。食いたい思いを必死で押さえながら、殴り続けていたそうだ。

 やがて戦争も終わり、日本に帰ってきた先生。夕暮れ時、家庭の台所から香ってくるサンマを焼く匂い。誰しもほっとするような香りなのに、先生はその香りを嗅ぐたび、猛烈な吐き気に襲われ、煙から逃げた。戦時中、部下を焼いた時のの体験がそうさせたと語っていた。

 先生はその後、アメリカ行きの船に乗って単身密航し、アメリカで電気回路の設計を学んだ。サンマの体験がそうさせたのかどうかは分からないが、自分が負けたアメリカという国をこの目で見たかったとは言っていた。

 土屋赫先生という(正確には土の右上に点が付く)。我々の頃にはオーディオ評論家として専門誌に記事を書かれていた。とてもオープンな先生で、私達と一緒に球面スピーカを作ったり、教科書が英語だったり、面白い先生だったけれど、ときたま我々を叱る時にはやはり元陸軍軍人だな、と思うようなこともあった。数年前に亡くなられたと聞き、残念でならない。

 色々な戦争体験談は聞いたけれど、土屋先生の体験談は、戦争に参加した兵士の話として今でも最も印象に残っている。

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